砂山
嗅覚は、人間の脳の中で記憶を司る部位と深くつながっているらしい。突然何かの香りをきっかけに、一瞬にして遠い昔にタイムスリップする事は誰しも一度は経験したことがあるだろう。
懐かしくおばあちゃんを思い出すタンスの香り。昔住んでいた街をおもい出させる地下鉄のホームの匂い。そして山に囲まれた阿智村に時々訪れる、潮の香り。
海と接点のない山国でなぜ潮の香りがするのかはさておき、たまに外仕事をしてると、フッと、潮の香りが風に乗り、私を違う世界へ連れて行ってくれる事がある。
私はここ長野に住むまでは海から離れて暮らしたことがなかった。千葉県の九十九里近辺出身の母を持ち、夏休みはアメリカ西海岸・オレゴン州の海辺に住んでいた父方の祖父母にお世話になっていた。目の前に広がる海の景色と、裸足で探るゴツゴツした岩場やひんやり冷たい砂浜の感触が当たり前で、学生時代は海洋生物学者を目指していた頃もあった。
それが山に囲まれた土地に暮らす様になった今、未だに「海がない」と言う事が私の脳はどうもまだ把握できていない様で、頭の中ではお師匠さんの畑から見える山のすぐ向こう側には港がある、という設定になっている。たまに漂うあの潮の香りは、その見えない海から漂って来ているのだろうか。
来月4月に私たち羽化連の二人と、久美ちゃんのギターの先生だった柿沢勲璋さんと一緒に演奏会をさせて頂ける事になった。そこで山田耕筰作曲の「砂山」をギターと篠笛で合奏する事が決まり、この有名な歌を知らない私は慌ててグーグル先生に相談した。
海は荒海、
向うは佐渡よ、
すずめ啼け啼け、もう日はくれた。
みんな呼べ呼べ、お星さま出たぞ。
暮れりや、砂山、
汐鳴りばかり、
すずめちりぢり、また風荒れる。
みんなちりぢり、もう誰も見えぬ。
かへろかへろよ、
茱萸(ぐみ)原わけて、
すずめさよなら、さよなら、あした。
海よさよなら、さよなら、あした。
北原白秋が夕暮れ時に見た新潟の浜辺の景色に着想を得て書いた詩が、元になっているそうだ。
新潟の海は見た事がないけれど、なんだか…
この景色、知ってる。
夕暮れ時、日が沈み始め、ゆったりと家路につく人や鳥のシルエットが、迫る夜空に隠されていく。暗くなるとポツン、ポツンと遠くで焚き火の明かりが灯される。砂浜を染める夕日は、国境に関係なく同じ情景を描いた。
歌が、心の拠り所になってくれたいくつもの海辺を記憶によみがえらせた。
祖母と一緒に砂浜を歩いていると、よく水平線の先を見つめながらこう言った:「ここからずーっと進んでくと、海の向こう側に日本があるんだよ。」人を切り離す莫大な壁にも見える海は、本当は岸と岸を繋ぐ架け橋だと言う事を知っているのは、きっと祖母も長年の間、海の向こうにいる人を想い続けた経験があるからだろう。
最近は会えない家族や友達を想う事が多く、今までだったら海岸へ行き少しでも近くになろうとしただろう。でも山で暮らす今は、この歌が、海を私に持ってきてくれた。
いろんな事を教えてくれた祖母も私が大学を終えた頃、考えや言葉をうまく発せられなくなってしまった。それでも若き頃の音楽を流すと、スラスラと歌詞が出てきて、涙を流したり、手を動かしながら、心から歌っていました。その目線の先には、私には見えない昔の景色が映っていた。
山にフワッと訪れる潮の香りの様に、聴く人の思い出の場所を招く演奏が、いつかできたら良いなぁ。今日も私の中の「砂山」を想いながら、お稽古が続く。
手元にあった写真ですが、そんな私に馴染みある砂山の風景をご覧ください。